AgriArt 野菜を「作る」という違和感!?

▼野菜が出来る「きっかけ」?

一般に農業を農作物を作る農業、生産する農業・・・という言い方をするが、ど うもピンとこない。
果たして農家は、大根やじゃがいも、米を生産しているのだろうか?

十数年前に、家庭菜園を始めた時、1〜2ヶ月放って置いた畑を夏の日に見たと き、草むらの中にカボチャや、スイカが落ちていた!?
草が絡み合った中で赤いトマトが見えている。茄子は草むらでしなびていた。
その時思ったのが、「誰が、作ったのか?」「誰が育てたのか?」。
・・・出来映えはいまいちだけど・・・。落ちていた!?という感覚だった。
「誰が作ったって?」
それは、お天とうさんと、空の雲がもたらす雨、最初に施した肥料と、それを分 解した微生物や、虫たち・・・の共同作業であったことを知る。
そのとき都会で仕事をしている私にとって「作物」という言葉の意味の違いを知 ったような気がした。
最初に苗を買ってきて、適当に肥料をばらまいたまま、育てることもほったらか しで、・・・私が作ったのは「きっかけ」だった。

▼農家の「作物」と都会の「作物」は違う

都会(工業的な意味で)でモノを作るという場合、例えば、携帯電話機や洋服、 ボールペンなどの場合、自然の力を借りるというよりも人間の力が100%近く作 用するイメージを持つ。その場合の物を作るという場合、無いモノから、有るモ ノにする行為が「作る」というイメージである。
ほとんどを自力で行う。だから、それを効率的に合理的に・・・と考える。考え ることが出来る。
しかし、農業の場合は、種を作り、種を蒔いて・・・苗を作り、苗を植えて野菜 を作る。・・・「作物」である。
しかし、人工光や水耕栽培などの科学的栽培方法を除く、一般的な農業形式の実 際は、季節のサイクルや虫や、雨(水)の力をいかに上手に利用するかにかかっ ている。
しかし、季節のサイクルや雨や虫の力を効率的に合理的に高めることはどの程度 出来るのだろうか?
農家の「作物」は携帯電話機や洋服、ボールペンではなく、決定的に違うのが「 食物」であるということだ。
利便性や経済性を問う前に、最終的に影響を与えるのは人体であることを忘れて はならない。
農家の「作物」の意味を都会人も農家人も「工業製品のように」勘違いしている。 生産の効率化、合理化のためにさまざまな農業技術が開発され「自然から給わる 本来性」を見失って迷走している。
「漁業」のように「獲ること」だけではないが「給わる」ことが本来ではないか と思う。

▼「農作物」と「子育て」

農作物の目指すところは、大きくて、格好の良い美味い「作物」である。
これは、従来の経済的な視点であって、安全で安心で健康的な食物を前提として いない。
特に、大きくて美味しい野菜は、家庭菜園でも競争の指標となっている。
隣よりも大きくて美味しい野菜を皆が目指すのだ。
そのためには、肥料のやり方や害虫排除と退治の方法を重要と考える。
少々の農薬は、「誰が言ったのか大丈夫!?」の範疇である。
要は、「上手に物を作ること」に専念するのだ。

生き物である農作物の「作物」という概念の混乱は、「子育て」に置き換えると 分かりやすいかも知れない。
親が子供に接する行為、すなわち「育てる為に何が必要か?」である。
健康で元気で聡明で素直で・・・人に好かれる子供を育てるために、親は何をす ればいいのか。
我慢や辛抱できる力、自ら生きる力を望まない親はいないと思う。
合理性と効率性をどのように考えるであろうか?

もし仮に、子供に錠剤のように飲ませると、知識や情報が簡単に身につく化成肥 料のような物があったとしたら、
貴方は、それを与えるであろうか?
不良友達や、いじめっ子をやっつける簡単な方法があった場合、安易に使用する だろうか?
与えた場合、使用した場合は、子供に知識と情報や環境を「作った」と思うかも 知れない。
しかし、何かを失うコトに気づきはしないか?
現在、日本の食糧自給率などとともに農業政策が議論になるが、人が食する「自 然から給わる本来性」という視点を明らかに見失っていると思うのだが・・・。