イメージメモ 『判断力と決断力』

〈判断〉とは、

ある事象について何事かを断定する思考作用であり、また、〈判断力〉とは、物事を正しく認識し、評価する能力・・・と辞書にはある。
〈判断力〉、例えば、棒を立てて、手を離したとき、どちらに倒れるかを判断する場合。判断力が必要なのは、倒れ始めの5度前後までで、後は誰が観ても倒れる方向は分かる。判断に必要なのは、最初に集中する観察・調査力である。

一方、〈決断〉とは、

ある事象について自分の意志をはっきりと決定することであり、〈決断力〉は、自分自身の判断・責任で決断する能力と辞書にはある。
〈決断力〉例えば、ある事象において、その決断した行動がマイナスと判断されたとしても、実行することがあり得る。
この場合、その行動を〈決断〉したという。
決断は、ある事象の判断だけではなく、あらゆる要素や全体的なバランスまでも導入して思考される。
そして、決断する人間の思想や主義という要素も決断要因となる。ある事象についての判断の多くは共通している場合が多いが、実際に行う人、行わない人が存在するのは〈決断力〉の差異である。よって、独自性・自立性の源泉は〈決断力〉にある。

現在問題になっている福島原発の政府(政治家)や東電、その他の関係者、また、テレビで批評・解説する多くの方々に共通するのは〈判断〉の津波である。
幾つかの観方を示して、このように〈判断〉したという繰り返しで、ほとんどだれも実際にどうすればいいのか〈決断〉しない。特に、本来責任者と思われる立場の人間に特に言えることだ。
決定的に〈決断力〉の欠如があると思う。
この期に及んで、〈決断力〉を養うことは不可能だ。

日本の教育

このような状況をもたらした大きな要因のひとつに、日本の教育がある。
日本人誰もが義務教育を経て大人になっていくわけだから、誰もが経験している教育である。
はっきり言って日本の教育は〈判断〉をする教育は行われるが、決断するための教育はほとんど行われていない。
学校の先生は、情報と知識を伝えることに専念して、大学を出ても自立できない人間ばかりを作っている。
大学を卒業しても、自分の生き方は〈判断〉は出来るが〈決断〉が出来ない人間を作ってきた。
それが、企業や行政人となり・・・このような閉塞的な日本に至っている。
情けないかな、ほとんどの日本の教育者は、自分たちが犯してきたコトに未だに気づいていないし、それがまだ続いている。
片方では、従来の情報と知識詰め込み教育がインターネットに置き換えられようとしている。
大学を目指す教育ではなく、社会に出て必要な教育は何なのか?

行動・実施を伴わなくてもいい判断は幾らでも出来る。
しかし、決断は行動・実施を前提とするから「決断はひとつ」に決めなければならない。
物事は、良い:悪い=100:0 には出来ない。
50:50の場合はどうするか?
30:70の場合はどうするか?
確率の高い方が結論なのか?・・・。

「決断」の教育、

それは、学校教育の主流から外れたスポーツや芸術などの活動によって養われている場合が多い。
そこでは、確率を裏切る勝ち負けを経験する。
情報や知識を超えて、〈実現する意志〉が重要であり、その表明が〈決断〉することと言えるのではないだろうか。
自立性は、決断するためのバランス価値の測り方、観方が大切になる。
そして、決断は、経験によって養われる〈経験的価値〉を肥やしに養われる。
失敗と成功の繰り返し・・・損と得の繰り返し・・・否、繰り返さずに損ばかりが増える場合もある。

繰り返しの中で、成功のループを発見することが出来る場合がある。
小さくても自己完結する判断と決断による結果が、新たな循環を産む場合である。
どんな職業でも良い、コンピュータプログラマーでも漁師でも、農業でも、事務職でも介護職でも・・・。

いまこそ生きるために必要な経験を前提とした〈決断力〉を養う実践的教育が必要な時が来ていると思う。
これからの日本のために。